欲の強さは方向を正せば武器になる
大みそかの除夜の鐘、一説によれば人間の持つ108の煩悩を祓うものといわれています。けれど、人の欲望ってそんなに悪いものでしょうか。
確かに、欲望はそれが叶えられない場合には執着となったり敗北感を感じたりという負の作用があります。
しかし、欲望がなければ人の文明はここまで発展しなかったはずです。寒い日に「暖かく過ごしたい」という欲望から暖房設備が発明され、「大切な我が子を失いたくない」という欲望から小児医療が発展したのです。
思うに欲望というものは非常に強いエネルギーです。
例えば原子力のように、強いエネルギーというのは有用性が高い一方で、扱いを間違えると人を殺傷する可能性もあります。
逆に言えば強いエネルギーである欲望もまた、扱いを間違えた場合には自分や人を傷つける可能性があります。
「あの人と付き合いたい」という欲望を適切にコントロールできなければストーカーになるし、「〇〇大学に入りたい」という欲望をかなえられなかった場合に学歴コンプレックスを一生引きずって性格をも損なう可能性もあります。
しかし、「あの人と付き合いたい」という欲望を、きれいになる努力だったりコミュニケーション能力を磨くことに向けていれば、仮にその人を手に入れられなかったとしても、もっと良い人とのご縁に恵まれる可能性があります。
また「〇〇大学に入りたい」と思って必死に努力することは、仮に〇〇大学に入れなかったとしても無駄になることはありません。受験勉強は教科の知識の獲得もさることながら、一定の期限内に目標を達成するための段取り力や情報収集能力を育てます。
つまり欲望を持つこと自体はむしろ必要なことであって、それを自己研鑽に向ける場合には自分の成長に役立つということです。
そして努力の結果、自分の殻を破ることができれば一段階高いステージに到達することができるので最終的には物心ともにより満たされることになります。
※余談ですが、私はこの世の中は階層構造であり人の精神的なステージが上がれば、それに比例して収入などの物質的な利益が伴うと考えています。なおここで精神的ステージが上というのは優しいとかそういうことではなく、自己責任の徹底だとか人としての度量のことをいっています。
育児に際して思うのは特に学校教育の方が顕著ですが、ともすると子供の欲望を制限することに向かいがちだということ。
散歩の途中、子供が好奇心から木の葉で遊び始めて止まらなくなった場合、適当なところでやめさせて家に帰ろうとするのが私たち大人がとりがちな行動です。
しかし、これを続ければ子供の「知りたい」という欲望を制限することにつながってしまうのでないかを危惧します。
途中でやめさせたい大人側の都合は、夕方になったら切り上げて家に帰る=スケジュール通りに過ごさなければいけない、というものです。
ルールに従うことは波風立てない人生を送るためには必要なことでしょう。かつての日本社会は、調和を大切にし、ごく一握りの支配層の指示に大多数の国民が疑問を持たずに従うことで成立していました。戦前の軍国主義はまさにそうですし、高度経済成長期の日本企業もそうでしょう。
しかし、国際的な競争が激化する今後の世界においては、人の指示に従って生きるだけでは普通の人生すら送ることが難しくなると考えています。そのとき、強い欲望を持ち自分の人生を切り開ける子供であれば、時代の変化に対応して強く生きていくことができると思っています。
したがって、子育てにおいて大人がすべきことは子供の欲望を阻害することなく見守り、口を出すことがあるとすれば欲望のコントロール方法を教える場面ではないでしょうか。